『花壇地錦抄』伊藤伊兵衛(三之丞)は、我が国最初の園芸書とされている。
伊藤伊兵衛 (三之丞) いとういへえ(さんのじょう)寛文七年(1667)-宝暦七年(1757?) 江戸・染井在住の植木屋
初代伊兵衛は伊勢国津藩主藤堂家出入りの植木屋。伊兵衛という名は、染井に居住する植木屋が代々襲名している名である。幕末まで五代目伊兵衛まで続く。
五代目伊兵衛(政武)は、霧島から取り寄せた躑躅の生産者として躑躅・皐の図解書「錦繍枕」元禄五年(1692)や総合園芸書「花壇地錦抄」元禄八年(1695)を著した祖父の三代目伊兵衛(三之烝)とともに目覚しい活躍を見せ、同業者とともにこの地の園芸発展にも尽力し、染井の名を世間に広く知らしめるものとなった。
その庭園は約6000坪といわれ、随所に地植えや鉢植の植物が配され、躑躅はもとより唐楓などの栽培種の見本園的性格を兼ね備えたものであったという。菊岡沾涼による「続江戸砂子温故名跡史」 享保二十年刊(1735年)には、江戸一番の植木屋と称されている。その絶頂期に浮世絵師、近藤助五郎に描かせた「武江染井翻紅軒霧島之図」には宣伝目的で旬の躑躅を中心に、人々が庭園を拝観する様子が描かれており、同業者はもとより将軍も訪れたという庭園を偲ばせるものとなっている。
また、草花類を収録した図譜「草花絵前集」元禄十二年(1699)をはじめとして、三代目伊兵衛(三之烝)の業績である躑躅・皐の栽培を継承し、「花壇地錦抄」の続刊刊行(「増補地錦抄」「広益地錦抄」「地錦抄附録」)を行った。
『花壇地錦抄』元禄8年(1695年) の「水草のるい」には、次のように出ている。
蓮花(れんげ) 紅白くちべに、いろいろあり。
唐蓮(とうれん) 花白きは大りん、くちべには小ぶり、葉はつねのれん葉におなし、少しの器物(うつわ)に植て花咲、指南次第にては春植えたる実生(ミおい)秋花咲之。
錦蕊蓮(きんしべれん) 唐れんなり 花うす紅にて金色の筋ありとそ。
小蓮花(これんげ) 花白 小りん 葉はみずあおいのごとくあいらしき花葉なり。
と、あるので、このころすでに紅白の外、爪紅や、小型の蓮が愛玩されていたようです。
『草花絵前集』元禄12年(1699年)には、唐蓮の図版が載っていて説明には、次のようにでています。
花形和蓮とよほど異(い)あり。蕾ようようひらかんとき花先少しかいわれ、明朝(あくるあさ)とくひらき、朝五つ過るまで有り、四の時分よりねむり、其花また次日(つぐるひ)も左のごとく、三四日めには終日開居(ひらきい)てちる。其内風ふかざれば、又三四もたもつ事有。花ねぶりしとき蜘蛛の糸をもつて花の腰を二三べんまきおけば久敷たもつといへり。花の色紅あり、白有、くちべにあり、其外いろいろ有。何も蓮肉もまろし。5月より八九月迄花段々出、さかり久敷、和蓮は一盛なるもの也。
とある。『花壇地錦抄』が刊行されてから、三四年の間に、品種が増えているようである。引用、『花壇地錦抄、草花絵前集』(加藤要校注 平凡社 東洋文庫)より。図は、国立国会図書館蔵。