カテゴリー別アーカイブ: 蓮学文献解題

中国の観蓮節と象鼻杯

梅雨が明け、各地の蓮池や蓮田では「観蓮会」や「蓮まつり」が盛んに開かれています。なかでも「象鼻杯」は人気行事ですが、その歴史をご存じでしょうか?
蓮文化研究家の三浦功大(1942―2013)が著した『蓮への招待―文献に見る蓮の文化史』(2004年 西田書店)には「象鼻杯」の歴史に関する文献がいくつも載っています。
中国の文人が始めた象鼻杯。その歴史に思いを馳せながら「象鼻杯」を優雅にたのしみましょう。
以下は『蓮への招待』の「中国の観蓮節」からの一部引用です。

中国では盛夏の一時を親しい友人を招いて、蓮を鑑賞しながら宴をする観蓮節が生まれている。観蓮節の様子を伝える初出の記録は、北魏・正始(504- 508 )の鄭公愨(ていこうかく―生没不詳)の『雞跖集』に見える。
夏月三伏の際に、賓僚を率いて使君林(山東省)において暑を避るに、大いなる蓮葉を取て酒を盛り、簪を以蓮を刺て柄と通はしめて、茎を屈輸困て象の鼻の如くして是を伝へて各其酒を吸はしむ是を碧筩杯と名つく。とあり、夏月の酷暑の時、避暑地で友人たちと蓮の花を見ながら碧筩杯をして涼んでいる様子が出ている。碧筩杯は今日の象鼻杯である。また唐代・九世紀中期の文人・段成式の『酉陽雑俎』巻七「酒食」の「暦城の北に使君林がある」は『雞跖集』からの引用と思われる。(以下略)

9世紀頃、観蓮節は夏の風物詩になっていたようだ。このような、観蓮会で行われていた象鼻杯(碧筩杯)の始まりは、東晋の書家・王逸少―義之(321―379)が41名の文人と会稽山の蘭亭で催した「曲水の宴」ではないかとされている。王其超氏(註・現代中国の花蓮研究家の第一人者)は王義之の『蘭亭の記』の「曲水の宴」を、『蓮之韵』の「荷花親和、故事十則」で、次のように記している。(註・中国語文は省略)

東晋の大書家・王義之は蘭亭で「曲水の宴」を催した。文人たちが渓席に座し、上流から蓮の葉に乗せられた盃がが流れてきたら、酒を飲み干し詩を一首詠む。このような「曲水の宴」で使用された蓮の葉がやがて、直接蓮の葉に酒を注ぎ茎から吸うようになったのではないだろうかと記している。

この「曲水の宴」の故事を江戸時代の画家・狩野山雪(1590―1651)が描いている。
「蘭亭曲水図屏風」(八曲二双 17世紀 京都・随心院蔵)は三二扇の長大な画面全面に渓流が流れ、所々に文人が座し、流れてきた蓮の葉に乗る盃を飲み干し、思案げに詩を吟じている様子や、かいがいしく手伝っている子供たちの姿や、残った酒を飲み干している子供などが生き生きと描かれている。(以下略)

 

 

カテゴリー: 蓮学文献解題 | 中国の観蓮節と象鼻杯 はコメントを受け付けていません。

「和漢三才図会」    寺島良安(てらしまりょうあん)

蓮 唐音レン[蓮房は蜂に似ている。それでこう名づける。また略して波須という] 『本草綱目』果部蔬類蓮寓[釈名・集解]に次のようにいう。

蓮は子から生育するものは発育が遅く、藕芽〔蓮根〕から生え出るものは発育が早い。芽は泥を穿って入り、白蒻となる。つまり、わかね(草冠+密)である。長いものは一丈余。五・六月の嫩いとき、水にもぐってこれを取り、蔬菜として食べる。俗に藕糸菜という。節に二茎が出る。一つは藕荷〔浮葉〕となり、その葉は水に貼く。その下に横行して藕が成長する。一つは(草冠+支)荷〔立葉〕となり、その葉は水から出て、その旁の茎に花が生じる。葉は清明(二十四気の今の四月五、六日ころ)ののちに生え出る。六、七月に花が開くが、花には紅・白・粉紅の三色がある。花のまだ開かないものを、かんたん(草冠+函、草冠+〓)といい、すでに開いたものは、芙きょ(草冠+渠)「芙蓉・水華」という。

 花の心には黄色の鬚があって、蕊の長さは一寸余。鬚の内がつまり蓮である。花がほころびると房を連ねて、はすのみ(草冠+荷 蓮実である)がなる。蓮の実が房にある様子はちょうど蜂の子が巣にあるのと似ている。六、七月に嫩いものを採って生で食べると脆くて美味である。秋になると房は枯れ、子は黒く石のように堅くなる。八、九月にこれを収取し、黒殻を斫取る。これを蓮肉という。冬月から春にかけて藕を掘り、これを食べる。  大抵、野生のものと紅花のものは蓮が多く藕はよくない。種植えのものと白いろのものは蓮は少なく藕は佳い。花白いものは香りよく、紅のものは艶である。千葉のものは実を結ばない。茎を荷という。茎は葉を背負っているので、負荷の意味をとってこういうのである。蓮の実の中の青い心二、三分を、苦(草冠+意)という。荷梗で穴を塞ぐと鼠は近づかなくなる。荷の煎湯で鑞垢を洗うと新品同然になる。物性によってこうなるのである。(以下略) 続いて蓮肉・藕・荷葉・蓮花の項目があるが、『本草綱目』『古今医統』『山海経』からの引用である。島田勇雄、竹島淳夫、樋口元己訳注『和漢三才図会』 平凡社 1994年第3版より。

カテゴリー: 蓮学文献解題 | 「和漢三才図会」    寺島良安(てらしまりょうあん) はコメントを受け付けていません。

『草木六部耕種法』(そうもくろくぶこうしゅほう)佐藤信淵(1769~1850)

全20巻。1829年(文政12)脱稿したが,公刊は明治である。有用植物の利用対象を,根・幹・皮・葉・花・実の六部にわけ,それぞれに属する植物の栽培法を解説している。この分類はほかに例がなく,信淵の独創とみなされる。登場する植物は約300種。

巻四 需根下編には、次のように出ている

蓮根・水慈姑等の作法

蓮も種類多く、淡紅蓮、白蓮、紅絲蓮、朝日蓮、牡丹蓮、鬼蓮等其の他尚ほ多し。然れども根を需めて作るべき物は、淡紅花、白色の二種のみ、其の他は皆花を賞玩するの業なるを以て茲に論ぜず。此れ等作法を審かにせんことを欲せば、下の需花編に就て求むべし。  蓮も亦牡牝有り、牡種は本太く末尖り、其形状此の如く、牝種は本小く末太り、其形此の如し、牡種を蒔たるは、二三年の間に其根頗る肥て花発き実を結ぶ。又牝種を蒔たるは容易に成長せざる者なり。宜しく牡種を蒔べし。抑々蓮根は蔬菜の頗る美なる者にて、且其需めて作る根外に葉も花実も共に有用多し。若し夫れ池・沼・溝等泥の深き処あらば此を植ゆべし。或は水田に植るも稲より利潤多き者なり。 凡そ蓮根を作るには、池・沼・溝及び水田に拘はらず、先ず能く障碍となるべき礁根等を除き精細に耕し、此に丙字号か丁字号中の泥土を温養する糞苴を耙錯て植るときは意外に繁生する者なり。所謂る丙字号の糞苴は培養秘録に七八方あり。 今其中に於て予が数々用ひて利益を得たる一方を挙ぐ。此方水草根を成長肥太すること甚だ妙効あり。其方、紅砒二斤、土硫黄五斤、石灰三斗、臘土八斗、小便f八斗、砂八斗、以上六品能く調合し、此を二三段許の泥中に耕交て精細に混合せしめ置き、四五日を経て植べし、此を大温肥と名く。又丁字号の糞苴も培養秘録に数方あり。 茲に其中一方を記して培用ふるに備ふ、其方、土硫黄五斤、石灰三斗、蜆殻灰牡蠣殻灰も宜し八斗、臘土八斗、小便八斗、砂八斗、以上六品調合し耕錯る、此れを大温肥と名く。然る後に種実を植ゆべし。又其泥深こと三四尺以上なるは太陽の光焔徹底すること難く、諸作物熱すること能はず。然れども蓮は成長する者なれども、年数を経ざれば出来易からず。此を速に繁栄せしむるに良法あり。 即ち其の水底を温めて泥中陽気を熾にするの業なり。其方、砒紅二斤、土硫黄五斤、石灰五斗、小便灰五斗、酒糟五斗、植土五荷、以上五品を少しく水を和して能く練り合わせ、大約一合許づゝを一篦として一坪四方の深泥中に三篦四篦も播散し、鉄耙を用いて二三日も時々此を爬廻し、然して後に芽出たる種実を埴土に包み、一段の地に二千粒許づゝ墜植にする時は、一両月に茎・葉・水面に延出て其根漸々肥太る者なり。

信淵は蓮根には、牝(雌)、牡(雄)があって、牝の蓮根は成長が遅く二、三年かかるので、植える時は牡の蓮根を蒔えると良いと記しているが、蓮根に牡牝があるなどと聞いたことがない。

信淵は肥料とその調合を詳しく記している。同じく『草木六部耕種法 巻十』の「需花上編」には、 蓮の種類甚だ多し、根を主として作る者は白蓮と紅蓮の二種なり。其の作法は上の需根編に詳かなり。花を主として作る者は、所謂紅白二蓮の外朝日蓮、紅絲蓮、牡丹蓮、金蓮、鬼蓮等あり。水草の花を盛にするには、鍾乳石、土硫黄、各々一斤、紅砒十両、馬溺塩十斤、以上四品を調合細末にして埴士二荷共に練りて拳大に丸くし、此を蓮一根に五三丸づゝ根の側に置くべし。若し盆栽にしたるには、其の鶏卵の大さにし、二三丸づつ根の傍に入るも良し。斯の如くするときは水中に生ずる所の草類甚だ能く繁栄して、其花大に且つ美麗なること、絶えて普通の者の及ぶべきに非ず。(後略)佐藤信綱著『草木六部耕種法』滝本誠一編『日本経済大典』(第19巻)明治文献社 1968年より

カテゴリー: 蓮学文献解題 | 『草木六部耕種法』(そうもくろくぶこうしゅほう)佐藤信淵(1769~1850) はコメントを受け付けていません。

『農業全書』(のうぎょうぜんしょ)

は、元禄10年(1697年)刊行された農書。出版されたものとしては日本最古の農業書。全11巻。1巻~10巻は元福岡藩士、宮崎安貞著。11巻は貝原益軒の兄、貝原楽軒著で付属である。明治に至るまで何度も刊行され、多くの読者を得た。『農業全書』巻之5「山野菜之類」には、次のようにでている。

蓮(はす、はちす)

蓮は其葉はN(草冠+遐)かと云ふ。その花をP(草冠+函)かんと云ふ。其実を蓮と云ふ。其根を藕と云ふ。其外所により名皆別なり。水草の中にてならびなき物なり。其性の能も勝れ、花も実も蘂も上品の物なり。実と根は食とし、薬とし、其余並に皆薬品也。花に赤白の二色あり。其香ひ人を感じ、君子のみさほによく似たりとて古人其徳を誉め置きたる霊草なり。又金蓮黄蓮など数種ありと唐の書に見えたり。

種ゆる法

蓮子八九月堅く黒くなりたる時取りて瓦石の上にて頭の方をすり、肉の大かた見ゆる程にしてねばき土をねりかため、蓮子を中に包み、太さを雉の卵ほどに丸め、少しながくし、すりたる方を平かにし、上の方を細くして乾し置み、泥中になげ入れば、頭の重く平らかなる方下に成りて沈めば、水の底にて直になるゆへ、やがて根を生ず。蓮子の皮をすらずして沈めたるは、皮厚く堅き物なるゆへ、生じがたし。又実りたる時すぐに其まゝ泥の中にうゆれば、大かた生ず。根をうゆる事は本根に近き所の疵のなきを掘取り、鮒などのある池の泥の中にうゆべし、其年則ち花咲く物なり。二月半蓮根を三節もつゞけて長くほり取り、他の池に移しうゆる事は頭の方日向に成るやうにすべし。硫黄をあらく粉にして紙よりの中にまきこめ、蓮根の節を一重二重巻きて沈めうゆれば、其年かならず花咲く物なり。又蓮子のからを打ちくだき、皮をよく去り、白米のごとくして飯にして食すれば、気力をまし、身をかるく、すくやかにする物なり。又根は渇きをやめ、血を散ず、肌をも助け、薬ともなり、料理色々にして賞翫の珍味なり。泥深き池水あらば、むなしくをすべからず。殊に鯉鮒のある池にうへをけば、水獺おそれて付かぬ物なり。蓮おほき所にては実を取りて薬屋にうるべし。蓮肉は脾胃を補ひ、潟をとめ、性のよき物なり。

白蓮と紅蓮と一所にうゆれば、白蓮きゆる物なり。(但地による事にや、広き池沢などに本より紅白交り  たるもありと云ふ。然れども新儀に種ゆるには必ず紅白まじゆべからず)。

又、近年は唐蓮多し。日本の蓮よりはよくさかへひろがり、花色々ありて見事なり。実をうへて生じやすし。但盆や鉢などに種へては、花甚だほそく愛すべし。広き池にうゆれば、根早くひろがり花殊の外大きなり。根を取るにも、花を賞するにも、唐蓮をうゆるにしかず。(以下略)  土屋喬雄校訂『農業全書』岩波文庫(1977年)より。図版は『農業全書』天明再版の見返し。

DSCN8735

 

カテゴリー: 蓮学文献解題 | 『農業全書』(のうぎょうぜんしょ) はコメントを受け付けていません。

『本朝食鑑』人見必大著 (一七〇一没)元禄10年(一六九七)刊、

本草書。日本の食物全般について、水部以下12部にわけ、品名を挙げて、その性質、能毒、滋味、食法その他を詳しく説明している。食鑑中の白眉とされる。「水菜類十六」では、「地下茎(蓮の根)」について、次のように出ている。

蓮根’れんこん)

[釈名]蓮の根は藕である。『和名抄』には〔『爾雅』に、荷は芙ふきょ(草冠+渠

はすの別名)といい、その本はみつ(草冠+密 はすの根元)、茎は茄、葉ははすのね(草冠+遐)であるが、遐もまた荷の字に同じ。華はかん(草冠+函たん草冠+□)(はすの花のまだ開かぬもの)という。『兼名苑』には、蓮は花の開いてしまったのものを芙きょ(草冠+渠)といい、まだ舒びていないものをかんたん(草冠+函、草冠+□)という。また子は蓮、その中は的、的(はすの実)とは蓮中の子をいう〕とある。李時珍『本草綱目』の釈名に、詳らかに名義が論じられてある。

[集解]各地の泥池および沼沢湖に多くある。蓮子を種えるばあいは生えるのが遅いが、藕の芽を種えるばあいは最も発芽しやすく、その芽は白蒻(泥中にある根)をなす。これがつまりはい(草冠+密)である。長さは一丈余になる。五、六月の若い時に、水に没って取れば、はい(草冠+密)を得る。これを藕糸菜という。華人はこれを賞して蔬と作して茹べる。我が国では昔から波恵といって賞でており、歌人もこれを詠んでいる。節は二茎を生じる。一つは藕荷〔浮葉〕となり、葉は水に貼き、下は傍に行き藕を生じる。もう一つきに<(草冠+支)荷>立葉となる。葉は水を出て、旁茎には、花が生じる。葉は清明(陰暦三月の節気)後に生じる。六、七月に花が開く。花は紅・白・粉紅の三色があり、花心に黄鬚をもつ。蘂の長さは一寸余、鬚内がすなわち蓮である。

また、千葉紅というものがある。近頃は白蓮花の葩の端の淡紅で一、二寸のものがあり、これを口紅という。あるいはまた碧色のものもある。当今、駿陽(みなみするが)にあって、土地の人が仏の青蓮座と言っているもののことである。しかし予はまだこれを見ていない。もし一つの池に紅白を雑種えると、その少ない方が枯れ尽きる。それで塘を築いて隔てるわけであるが、池の広さが、四、五十歩以上のところに両方を相阻てて植えると、倶に盛美である。

近代、子芽を植えることは鮮ない。惟新根を採り泥を穿って種えると、旁行して蔓りやすい。十分に蔓茂したものから復根を採る。根皮は灰黄色か白色、節は黒く、鬚がある。根皮を刮りとれば純白で、孔があり糸がある。根の大きいものは肱臂のようで、長は六・七尺もある。煮蒸し、熱すれば淡黒となる。このとき熱湯中に厳醋少々を加えて二、三沸煮て取り出せば白色のままで、黒く変色しないのも奇である。凡そ野生および紅花のものは、蓮が多く藕は劣っている。種蒔および白色のものは蓮は少なく藕は佳い。世俗では、「蓮は仏の愛するものなので、枯れ衰えそうな時には池の中に僧衲を浸すと死なぬ」という。大抵、蓮は素藍汁を好むものであり、今僧衲は藍で染ているので、当然そうなるのである。(後略) 島田勇雄 訳注『本朝食鑑』(平凡社 1993年版より) パソコンで出てこない活字が少々あるので『本朝食鑑』で確認されたい。

DSCN8760

カテゴリー: 蓮学文献解題 | 『本朝食鑑』人見必大著 (一七〇一没)元禄10年(一六九七)刊、 はコメントを受け付けていません。

『花壇地錦抄』6巻 元禄8年(1695年)  『草花絵前集』元禄12年(1699年)

 『花壇地錦抄』伊藤伊兵衛(三之丞)は、我が国最初の園芸書とされている。

伊藤伊兵衛 (三之丞) いとういへえ(さんのじょう)寛文七年(1667)-宝暦七年(1757?) 江戸・染井在住の植木屋

  初代伊兵衛は伊勢国津藩主藤堂家出入りの植木屋。伊兵衛という名は、染井に居住する植木屋が代々襲名している名である。幕末まで五代目伊兵衛まで続く。

五代目伊兵衛(政武)は、霧島から取り寄せた躑躅の生産者として躑躅・皐の図解書「錦繍枕」元禄五年(1692)や総合園芸書「花壇地錦抄」元禄八年(1695)を著した祖父の三代目伊兵衛(三之烝)とともに目覚しい活躍を見せ、同業者とともにこの地の園芸発展にも尽力し、染井の名を世間に広く知らしめるものとなった。

その庭園は約6000坪といわれ、随所に地植えや鉢植の植物が配され、躑躅はもとより唐楓などの栽培種の見本園的性格を兼ね備えたものであったという。菊岡沾涼による「続江戸砂子温故名跡史」 享保二十年刊(1735年)には、江戸一番の植木屋と称されている。その絶頂期に浮世絵師、近藤助五郎に描かせた「武江染井翻紅軒霧島之図」には宣伝目的で旬の躑躅を中心に、人々が庭園を拝観する様子が描かれており、同業者はもとより将軍も訪れたという庭園を偲ばせるものとなっている。

 また、草花類を収録した図譜「草花絵前集」元禄十二年(1699)をはじめとして、三代目伊兵衛(三之烝)の業績である躑躅・皐の栽培を継承し、「花壇地錦抄」の続刊刊行(「増補地錦抄」「広益地錦抄」「地錦抄附録」)を行った。

『花壇地錦抄』元禄8年(1695年) の「水草のるい」には、次のように出ている。

蓮花(れんげ) 紅白くちべに、いろいろあり。

唐蓮(とうれん) 花白きは大りん、くちべには小ぶり、葉はつねのれん葉におなし、少しの器物(うつわ)に植て花咲、指南次第にては春植えたる実生(ミおい)秋花咲之。

錦蕊蓮(きんしべれん) 唐れんなり 花うす紅にて金色の筋ありとそ。

小蓮花(これんげ) 花白 小りん 葉はみずあおいのごとくあいらしき花葉なり。

と、あるので、このころすでに紅白の外、爪紅や、小型の蓮が愛玩されていたようです。

『草花絵前集』元禄12年(1699年)には、唐蓮の図版が載っていて説明には、次のようにでています。

花形和蓮とよほど異(い)あり。蕾ようようひらかんとき花先少しかいわれ、明朝(あくるあさ)とくひらき、朝五つ過るまで有り、四の時分よりねむり、其花また次日(つぐるひ)も左のごとく、三四日めには終日開居(ひらきい)てちる。其内風ふかざれば、又三四もたもつ事有。花ねぶりしとき蜘蛛の糸をもつて花の腰を二三べんまきおけば久敷たもつといへり。花の色紅あり、白有、くちべにあり、其外いろいろ有。何も蓮肉もまろし。5月より八九月迄花段々出、さかり久敷、和蓮は一盛なるもの也。

とある。『花壇地錦抄』が刊行されてから、三四年の間に、品種が増えているようである。引用、『花壇地錦抄、草花絵前集』(加藤要校注 平凡社 東洋文庫)より。図は、国立国会図書館蔵。

花壇地錦

カテゴリー: 蓮学文献解題 | 『花壇地錦抄』6巻 元禄8年(1695年)  『草花絵前集』元禄12年(1699年) はコメントを受け付けていません。

「蔭涼軒日録」(いんりょうけんにちろく)

「蔭涼軒日録」(いんりょうけんにちろく)

本書は、京都市上京区にある臨済宗相国寺派大本山、相国寺塔頭(たつちゆう)鹿苑院(ろくおんいん 金閣寺)の蔭涼軒主歴代の日記。全体の執筆期間は 1435~93 年に及ぶ。このうち、1458~66 年までは、季瓊真蘂(1401~1469 きけいしんずい)、後半の1484~93 年分は、亀泉集証(1424~1493 きせんしゆうしよう)を記録している。室町時代の重要史料の一つ。金閣寺の僧侶である季瓊真蘂と亀泉集証の記録である。五山内部の状況のほかに、室町幕府の動静についても詳記されているが、将軍の宗教行事関する記事、幕府機構、仏教・政治・文芸などにわたり、史料的価値が高い。

同書での蓮の初は、1440年であるが、それから1493年まで蓮の記述は45件ほど出てくる。長禄4年8月7日(1460年)の項に「千葉(妙蓮)の蓮華、江州(滋賀県)より之を献ず。其葉華重畳。寄と為すと雖も実を結ば不るの由仰せらる也。又曰く、此蓮は種子無しと仰せられる也。種子有らば則ち世界に充満す可き也。種子無く則ち又稀有と為す、供に笑話す」とある。滋賀県守山市の田中家から、たびたび妙蓮の生花や、蓮根が献上されているので、それが話題になっている。また、西芳寺(苔寺)や南御所でも蓮が咲いていることがきされています。

原本は関東大震災で焼失。活字版は『大日本仏教全書』、『続史料大成』(蔭涼軒日録1 臨川書店) 『蔭凉軒日録』 (1953年) 史籍刊行会 がある。

カテゴリー: 蓮学文献解題 | 「蔭涼軒日録」(いんりょうけんにちろく) はコメントを受け付けていません。

『類聚国史』(るいじゅうこくし)の象鼻杯

類聚国史は編年体である六国史の記載を中国の類書にならい分類再編集したもので、菅原道真の編纂により、892年(寛平4年)に完成・成立した歴史書である。中国の唐代では、詩文の作成や知識の整理のために、古典の中から必要な箇所を抜書きして分類編纂することが広く行われ、これを類書と称した。この書もまた、類書の形態を踏襲しており、この書を類書として見ることも可能である。もとは本文200巻目録2巻系図3巻の計205巻であったが、応仁の乱で散逸したとされ、現存するのは62巻のみである。帝王、後宮、人、歳時、音楽、賞宴、奉献、政理、刑法、職官、文、田地、祥瑞、災異、仏道、風俗、殊俗という18の分類(類聚)ごとにまとめられている。

『類聚国史』巻第三十二「帝王」延暦13年(794)8月癸丑の条には、「翫蓮葉宴飲、奏楽賜禄」とある。この行事は、中国古代に行われていた蓮葉を用いて飲酒した「碧筩杯」(象鼻杯)を見習ったものであると思われる。これは蓮の葉の中央の臍に小さな穴を茎と通じさせて酒を注ぎ、茎の先から酒を吸うという蓮の香りを楽しむ真夏の朝の優雅な行事である。現在、中国では絶えて伝わっていないようである。魏の正始年間(240~249)に始まったとされている。図は宋 林洪(りんこう)著「山家清供」『中国の食譜』(中村喬訳 東洋文庫 平凡社 1995年)より。山家清供には、その他「蓮房魚包』(蓮の房の魚肉詰)、「玉井飯」(蓮根と蓮の実の飯)が紹介されている。

中国の食譜

 

 

 

 

 

カテゴリー: 蓮学文献解題 | 『類聚国史』(るいじゅうこくし)の象鼻杯 はコメントを受け付けていません。

『延喜式』(えんぎしき)

平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)で、三代格式の一つである。三代格式のうちほぼ完全な形で残っているのは延喜式だけであり、細かな事柄まで規定されているため、古代史研究のうえで重視されている。

905年(延喜5年)、醍醐天皇の命により藤原時平らが編纂を始め、時平の死後は藤原忠平が編纂に当たった。『弘仁式』『貞観式』とその後の式を取捨編集し、927年(延長5年)に完成した。その後改訂を重ね、967年(康保4年)より施行された。

全50巻、約3300条からなる。律令官制に従い、以下のような構成となっている。 巻24の主計寮上には、全国への庸、調、中男作物の割り当て等が書かれており、当時の全国の農産物、漁獲物、特産物を伝える。

『延喜式』巻第三十九内膳司の項に、蓮葉、蓮子、蓮根等が献上されている,下記の記述が見える。

荷(蓮のこと)葉

稚葉七十五枚  波斐 四把半  並起五月中旬盡六月中旬

壮葉七十五枚  蓮子二十房  稚葉十五枚  起六月下旬盡七月下旬

黄葉七十五枚  蓮子二十房  稚藕十五条  黄八月上旬盡九月下旬

右河内国所進。各髄月限隔一日供之

とあり、この中の蓮子(蓮の実)、 稚藕(蓮根)、は食用として、用いられたものと思われる。蓮葉の用途は、食物を包だり、酒を飲む(象鼻杯)杯にまた生薬として、用いられたものと考えられる。これらは河内の国の蓮田から献上されている。

内膳司は宮中の食事を司る役所である。内膳司では、五月中旬から九月中旬にかけて、河内の国から,一日おきに蓮葉、稚藕、壮葉、果托、波斐(蔤・白蒻)を、献上させています。沢山の蓮の利用目的が何であったか興味が尽きない。

wa03_01594_0049_p0001s[1]

カテゴリー: 蓮学文献解題 | 『延喜式』(えんぎしき) はコメントを受け付けていません。

「装飾経」の蓮文様(そうしょくきょうのはすもんよう)

 仏教が日本に百済からもたらされるのは、一説には552年、一説には538年ともいわれているがどちらが正しいか一概に言えないようである。仏教が日本人に影響をおよぼした精神形成ははかりしれない。仏教が伝来すると短期間のうちに、宮廷や貴族に受け入れられ各地に大寺院が建立され、寺院を荘厳する蓮文様の仏教工芸品が用意された。蓮台に乗る仏像、曼荼羅、仏具、瓦などが制作された。工芸品で蓮文様が描かれいる初期の代表的な作品は、法隆寺の国宝「阿弥陀三尊像」(伝橘夫人念仏 7世紀)であろう。

奈良時代になると、仏教に帰依する人が増え、聖武天皇や光明皇后の発願いにより、寺院で写経が盛んにおこなわれるようになる.平安時代になると、それまで隆盛を極めていた奈良仏教が衰退すると、空海(弘法大師)が真言宗を、最澄(伝教大師)が天台宗を起こした。天台宗の恵心僧正(942~1017)が『往生要集』を著すと、王朝貴族は阿弥陀経の極楽世界を唱える浄土思想の進行にこぞって救いを求め写経をした。当時の耽美的な貴族生活を反映して、料紙に金銀の切箔、砂子を使い、荘厳な意匠をこらした絢爛豪華で比類のない装飾経が生まれた。その代表が平清盛が一族の繁栄を願って厳島神社に奉納した平家納経である。

以下は代表的な装飾経である。 国宝「平家納経」長寛2年(1164) 厳島神社蔵。国宝「扇面法華経冊子」平安時代 大阪・四天王寺蔵。国宝「一字蓮台法華経」平安時代 福島・龍興寺蔵。国宝「一字蓮台法華経普賢菩薩歓発品」平安時代 大和文華館。国宝「慈光寺経」鎌倉時代 埼玉・慈光寺蔵。重文「久能寺経」静岡・久能山鉄舟寺蔵などが知られている。  図は、国宝「平家納経」法華経 信解品第四表紙 厳島神社蔵.

平家納経信解品

 

 

 

 

 

 

 

カテゴリー: 蓮学文献解題 | 「装飾経」の蓮文様(そうしょくきょうのはすもんよう) はコメントを受け付けていません。