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「藕糸織り」折口信夫(おりくち しのぶ 1887年~1953年 日本民俗学者・国文学者・国語学者)

「藕糸織り」折口信夫(おりくち しのぶ 1887年― 1953年 日本 民俗学者、国文学者、国語学者)

十一
若人等は、この頃、氏々の御館ですることだと言って、苑の池の蓮の茎を切って来ては、(ハス)(イト)を引く工夫に、一心になって居た。横佩家の池の面を埋めるほど、珠を捲いたり、解けたりした蓮の葉はまばらになって、水の反射が蔀を越して、女部屋まで来るばかりになった。茎を折っては、繊維を引き出し、其片糸を幾筋も合せては、糸に縒る。郎女は、女たちの凝っている手芸を、ぢつと見て居る日もあった。ほうほうと切れてしまふ藕糸を、八()、十二()二十合(ハタコ)に縒って、根気よく、細い綱のようにする。其を積み麻の麻()(ごけに繋ぎためて行く。(中略)

刀自たちは、初めは、そんな(の技人のするような事は、と目もくれなかった。
だが時が立つと、段々興味を惹かれる様子が見えて来た。

こりや、おもしろい。絹の糸と、積み麻との間を行く様な妙な糸の―。
此で、切れさへしなければなう。(中略)

寺には其々の技女が居て、其糸で、唐土(モロコシ)(ヤウ)といふよりも、天竺風な織物に織りあげる、と言ふ評判であった。女たちは唯功徳のために糸を積いでいる。(中略)

だが、其がほんとは、どんな織物になることやら、其処までは想像も出来なかった。
若人たちは茎を折っては、巧みに糸を引き切らぬやうに、長く長くと抽き出す。(中略)

磨かれぬ智慧を抱いたまゝ、何も知らず思はずに、過ぎて行った幾百年、幾万の尊い女性の間に、()の花がぽっちりと、莟を擡げたやうに、物を考へることを知り染めた郎女であった。

十六

もう池のほとりにおり立って、伸びた蓮の茎を切り集め出した。其を見て居た寺の婢女が、其はまだ若い、まう半月もおかねばと言って、蓮根(を取る為に作ってあった蓮田()へ、案内しようと言ひ出した。(中略)

 

板屋の前には、俄かに、蓮の茎が干し並べられた。さうして其が乾くと、谷の澱みに持ち下りて浸す。浸しては晒し、晒しては水に(でた幾日の後、筵の上で槌の音たかく、こもごも、交々と叩き柔らげた。(中略)

 

日晒しの茎を、八針に裂き、其を又、幾針にも裂く。(中略)。

蓮は池のも、田居のも、極度に長けて、莟の大きくふくらんだのも、見え出した。婢女は、今が刈りしほだと教えたので、若人たちは皆手も足も泥にして又田に立ち暮らす日が続いた。

十八

もう池のほとりにおり立って、伸びた蓮の茎を切り集め出した。其を見て居た寺の婢女が、其はまだ若い、まう半月もおかねばと言って、蓮根(を取る為に作ってあった蓮田()へ、案内しようと言ひ出した。(中略)

 

板屋の前には、俄かに、蓮の茎が干し並べられた。さうして其が乾くと、谷の澱みに持ち下りて浸す。浸しては晒し、晒しては水に(でた幾日の後、筵の上で槌の音たかく、こもごも、交々と叩き柔らげた。(中略)日晒しの茎を、八針に裂き、其を又、幾針にも裂く。(中略)。蓮は池のも、田居のも、極度に長けて、莟の大きくふくらんだのも、見え出した。婢女は、今が刈りしほだと教えたので、若人たちは皆手も足も泥にして又田に立ち暮らす日が続いた。

 

なにしろ、唐土で()も、天竺から渡ったモノより手に入らぬ、といふ藕糸織りを遊ばそう、といふのぢゃものなう。 (以下略)

 

『死者の書』(昭和14年1-3月「日本評論」初出)
昭和30年6月、中央公論社『折口信夫全集』第24巻より)                     

 

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「ロータスの環」   松山俊太郎  (インド学者 1930年生まれ~ )

植物学では、ハスは Nelumbo、スイレンはNymphaea、オニバスはEuryale、オオオニバスは、Victoriaで、ともにスイレン科の水草であるとはいえ、属を異にしている。ところが、文化史からすればハスとスイレンは、しばしば、混同されてきたばかりか、エジプトのスイレンの象徴的意義はインド以東ではハスに受け継がれている。

 したがって、宗教や芸術を論ずる場合には、ハス~スイレンを一体と扱うことが必要なのであるが、中国や日本には、両者をまとめて呼ぶ言葉がない。インドでは、パドマという語をハス~スイレンの総称としうるが、本来は<紅いハス>であるうえに、パドマでは多くの日本人に通じない。だから、ロータスという国際語を使用したのである。

 こうして、ハス~スイレンをロータスとしてまとめると、ロータスは、アフリカをはじめヨ-ロッパ<ハス、スイレン>、アジア<ハス、スイレン>、オーストラリア<ハス>、北アメリカ<アメリカキバナハス、スイレン>、南アメリカ<オオオニバス>、と、六の大陸に自生することになる。

 水と温度をととのえれば、どこでもハス~スイレン~オオオニバスを楽しめるので、このロータスを、人類の連帯と平和と繁栄のシンボルにしたいものである。

だが、これまでの歴史におけるロータスは、西はエジプトから東は日本までのいくつかの文明で、特色ある文明で、特色ある精華を連ねたにすぎない。ただし、東へ行くほど、西でのロータス文化を順次受け入れたので、いまのところ、日本が重層の極限となっている。(以下、エジプト、ギリシャ、インド、中国、韓国、日本、アメリカの蓮の解説と続くが略)、、引用『FRONT』(水の文化情報誌)、1997年6月号より抜粋。

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「蓮」    斎藤正二 1925年生 日本文学者 

ハチスの語源は、たとえば、『和漢三才図会』(1713年刊)に「蓮 和名波知須。蓮房以蜂巣故名之。又略曰波須」と見える記事によって代表されるように、この実が蜂巣に似ているところから名づけられた、というふうにいわれている。この通説に異を立てるつもりはないが、わたしなりに調べた範囲では、どうもこれは辻褄(つじつま)が合いすぎて こじつけ としか見えない。蜂そのものは、『古事記』上巻の大国主命の根国訪問の条に「蜂の非礼(ひれ)」が見え、また『日本書紀』皇極天皇二年の末尾に「是歳 百済太子余豊(こんきしよほう) 以蜜蜂房四枚(みつばちのすよつ) 放養於三輪山。而終不蕃息(うまはら)」が見える記事から推すと、久しく日本列島から恐怖の対象とされ、七世紀以後になってやっとのこと朝鮮半島の密蜂飼養技術の輸入を見たというにすぎなかった。なんにしても、蜂がひとびとからしたしまれていなかったことだけは確実である。そうだとすれば、花も美しければ根もまた食べられるという、すてきでもあり有益でもあるこの渡来種の水草にわざわざ憎まれっ子の蜂の名を冠(かむ)せるなどのことがあり得ようとは、ちょっと考えられない。それに日本上代語のパターンからすると、蜂巣は、ハチスでなくて、ハチノでなければばらない。通説には、どうしても無理があるように思う。

しからば、本当の語原は何かということになるが、それに答えるすべは当方にもない。当方は、むしろ、あいまいな語原を追い求めるより、はっきりわかっている原産地におけるハチスの名称をおさえておくべきである、との科学的立場にとどまることをよしとする。(つづく) 『植物と日本文化』(八坂書房 1979年)より。

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花中の君子   蓮        水上静夫 (1922~ 中国文学者)

泥中よりの清廉の使者  蓮

蓮はインドが原産地であるということは、植物学の定説であるようである事実、インド上空を飛行機でとぶと、わが奈良県の五万に及ぶ沼地以上に、多くの沼沢池があり、そこに野生の蓮が群生しているといわれている。インドに興った仏教でも、蓮は釈迦の台座にあり、また、また、極楽の一つのシンボルでもある。わが国の蓮は中国からの輸入とされそれ以前のものと思われる化石も出てくる。いったい、植物の原産地を一か所に限定するのは、植物学界の習わしのようである。ところが、中国の古代植物を眺めていると、先泰時代にすでに「蓮」と「葦」に十箇以上の名称があったことが窺える。私は、中国の古代植物に興味を持ち始めたころ、かなりの困惑を感じたものである。そして、ダーウィン(1809~1882)の、『種の起源』の第二章の「疑わしい種」の項に、

  私は、もし自然状態にある動物または植物がきわめて人間に有用であるか、あるいは何かの原因で人間の注意をひくとき、その変種がほとんど普ねく記録されているという事実に吃驚した。

という考えを準用して処理している。中国の「葦」も「蓮」変種名ではないが、古代のそのように数多い関連の名称があるということは、それだけ有用度が高く、人びとに認識されていたからと思うからである。そこで、その各々の名称を眺めてみることにしよう。およそ、事物の古い名称を探ってみることほど面白いことはない。(続く) 『花は紅・柳は緑』八坂書房 1893年)より。

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「ハスと人間」  宮本常一(みやもと つねいち 1907年~1981年 日本民俗学者) 

   蓮は方々の庭園の池に水蓮などとともに植えられていて、6月頃に花をひらき、一つの点景をなしている。つまり観賞用の植物なのであるが、単に観賞用としてではなく、早くからその根を食用に供することを知っており、一般民衆には食用作物として作られ、親しまれていた。そして低湿地帯の農家の多くは、屋敷の周りに蓮田か蓮池をもっていたものである。だから6月頃になると、近畿、濃尾などの平野の村々には必ず、蓮の花の咲いている風景をみかけたものであった。とくに大垣、岐阜付近にはこの蓮田が広く蓮の花の上に村が浮かんでいるような風景さえ見られた。

  このように蓮は低地に作られたばかりでなく山間でも、沼地や深田のようなところには蓮が植えられていた。今はすっかり美田になっている広島県志和町の野は、もとは一面の湿田であった。山間の盆地状のところで、そのくぼみになったところは米を作ろうにも作りようのない沼地であったという。それでも人は米の作れるようなところへは土に丸太をよこたえ、その上に乗って稲を植え、秋は刈りとったのだが、その稲さえ植えられなかったところは蓮を植え、夏はその大きな蓮の葉におおわれ、花が咲き、それこそ極楽のように楽しかったこと、当時のことをおぼえている古老が話してくれたことがある。(以下略)『宮本常一著作集 43巻』(未来社 2003年)「ハスと人間」より。

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「蓮花図」(はすはなず) 

宮本百合子〔(みやもと ゆりこ)1899年(明治24年)-1951年(昭和26年) 作家、評論家〕の随筆に次の「蓮花図」があるので、冒頭の部分を投稿する。興味ある人は続きを見てください。

「志賀直哉氏編、座右宝の中に、除熙(じょき)の作と伝えられている蓮花図がある。蓮池に白鷺が遊んでいるところを描いたものだが、花をつけた蓮に比べて白鷺が大変小さく描かれている。いかにも大きく古き蓮池に霊のような白鷺の遊ぶ趣が幽婉(ゆうえん)に捕らえられている。蓮花の茎が入り乱れて抽(ぬきん)でている下に鷺を配したところも凡手でなく、一種重厚な、美を貫く生の凄さに似たものさえ、その時代のついた画面から漂って来るのだ。

 この絵から私は強い印象を受け、こうやって書いていても黝(くろず)んだ蓮の折れ葉の下に戦(そよ)ぐ鷺の頸(くび)の白い羽毛を感じる。……その絵の中に1本の蓼(たで)がある。蓮の中から高く空中に花を咲かせている。不思議な奥深い寂寞(せきばく)の感じは、動かぬその蓼の房花によって語られているかと思われる。ところが偶然その蓼の花を今年毎日眺め暮すことになった」。初出1927年(以下略)『宮本百合子全集』第9巻 (2001年 新日本出版)より。

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「蓮」    豊島与志雄 <とよしま よしお> 

 豊島与志雄 <とよしま よしお、 1895年(明治23年)-1955年(昭和30年) 小説家、翻訳家、仏文学者>。

 私は蓮が好きである。泥池の中から真直に一茎を伸ばして、その頂に一つ葉や花や実をつける。その独特の風情もよい。また、単に花からばかりでなく、葉や実や根などからまでも、仄かに漂い出してくる。あの清い素純な香もよい。その形、その香、そして泥土と水、凡てに原始的な幽玄な趣きがある。

 田舎の子供達は、真白な蓮の根をぼきりと折って、中は通ってる八つの穴に何がはいっているかと、好奇の眼を見張りながら、いつまでもじっと覗き込む。または葉の茎を折り取って、それを更に幾つにも小さく折って、折られた茎が細い糸でつながってゆくのを、面白そうにぶら下げて眺める。それにも倦きると、小川の清い水を葉の中にすくい込み、鮒や鯰の子を捕まえてきて、その中に泳がせて楽しむ。或いはまた、大きな花を取ってきて、その真っ白の花弁を一つ一つむしり取り、黄色い雄しべ、雌しべを中にのせ、宝を積んだ舟として、橋の上から川の中に、幾つも幾つも流し浮かべる。(以下略)『豊島与志雄著作集 第6巻』(1967年 未来社)より。

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蓮の話 双頭蓮と蓮の曼荼羅   牧野富太郎(植物学者 1862~1957)

諸君は、諸処の池において「蓮」を見ましょう。その清浄にして特異なる傘状の大きな葉とその紅色もしくは白色の顕著なる花とは、一度これを見た人のけして忘るることのできぬほ立派なものであります。またその蓮根と呼ぶものを諸君は食事の時にときどき食するでしょう。その孔の通った奇異なる形状はこれまた諸氏の常に記憶するところのものでありましょう。

通常蓮根と呼んで食用に供する部分は、世人はこれを根だと思っておりますが、これは決して根ではありません、それならばこれがなんであるかと言えば、これは元来蓮の茎の先の方の肥大した一部分であります。この茎はすなわち蓮の本幹と枝とであってあたかもキュウリやナスビなどの幹と枝とに同じものです。このキュウリやナスビなどはその幹枝が空気中にありて上に向かい立っておりますが、蓮では幹枝が水底の泥中にあって横に匍匐(はふく)しているのです。ことごとく泥中や地中にある幹枝を学問上では根茎ともいえば地下茎とも言います。それゆえ通常常世人が称する蓮根なるものは学問上より言えば地下茎、一名根茎と言わねばなりません。また、蓮根を雅に言えば蓮藕また単に藕とも称えます。(以下略 続きに興味ある方は植物記を参照ください)『植物記』(桜井書店 1943年)、ちくま学芸文庫『植物記』。

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蜘蛛の糸

4月4日「蓮の豆知識」<蓮に香り>について投稿しました。それに関連し思い出したのが、 芥川龍之介(1892~1927)が『赤い鳥』創刊号(大正8年)に発表した「蜘蛛の糸」です。蓮の香りで始り、蓮の香りで終っていますので、冒頭の部分と最後の部分を投稿します。

或日のことでございます。お釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶらお歩きになっていらっしゃいました。池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のようにまつ白で、そのまん中にある金色の蕋(ずい)からは、何とも言へない好い匂いが、絶間なくあたりへ溢れて居りました。(中略) お釈迦様は極楽の蓮池のふちに立って、この一部始終をじつと見ていらっしゃいましたが、やがて犍陀多(かんだだ)が血の池の底へ石のように沈んでしまいますと、悲しそうな顔をなさりながら、又ぶらぶらお歩きになり始めました。

自分ばかり地獄からぬけ出そうとする、犍陀多の無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰をうけて、もとの地獄へ落ちてしまったのが、お釈迦さまのお目から見ると、浅間しく思(おぼ)しめされたのでございましょう。しかし、極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には沈着致しません。

その玉のような白い花は、お釈迦さまのお足のまわりに、ゆらゆら萼(うてな)を動かしております。そんなたんびに、まん中にある金色の蕊(ずい)からは、何とも云えない好い匂が、絶え間なくあたりに溢れ出ます。極楽ももうお牛(ひる)に近くになりました。

 

 

 

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 蓮  美への行動と日本文化    西山松之助

蓮華蔵世界

蓮の花を測定して、全国くまなく歩きまわったこともないので、この花が最大の花だときめることは当を得ていないであろう。もちろん私の推定なのである。推定なのだが、たぶん誰でもそうだろうと賛成してしてくれるのではないかと思う。その推定最大の花は、奈良の大仏が鎮座している、あの大きな青銅製の蓮華である。あの蓮の花は巨大である。

国体とかオリンピックのマスゲームなどで、もっと大きな花が瞬間的に表現されたことなどもあったかもしれないが、わたしは特別に許されて大仏の台座の蓮弁のところまで上げていただいたことがある。いちばん外側の蓮弁は下向きに開き、内側の蓮弁が迎蓮弁といわれる上向きのもので、この迎蓮弁の一つ一つが、私たちの背よりもはるかに高く、とてつもなく大きいものであった。

外側の下向きに開いている花弁によじ上って、でかいもんだなと思いながらその上に立ってみると迎蓮弁が立ちふさがってあまりの巨大さに、これが蓮華の花弁かと異様な感じになる。しかも、源平の争乱と戦国の乱に遭って二度も本尊大仏は焼け落ちたのに、天平のおもかげをそのまま伝えている蓮の花の部分は、草創期以来千余年間、多くの人の信仰が集まっただけに、今は、一種独特の黒光りに輝いている。よく見ると、その黒光りの表面には、きわめて繊細緻密な天平の線描がいちめんに彫りこまれている。どういう技術で、このような金属面にかくも流麗に、生き生きとよどみない線描が彫りこめたものか、ただ感嘆のほかはない。私はこの線描の絵を見ていて、そのときふっと子供のころ涼台で毎晩ながめた天の河を思いだした。(以下省略)、『花 美への行動と日本文化』(1969年 日本放送出版会 p57~71)より抜粋。西山松之助(1912~2013年)

西山花

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